大理市の旅2


2010年2月15日
 この大理探検記は、麗江探検記から続いています。

 麗江を出て順調にバスは走り、大理古城まであと1時間もかからない距離だろうと思われた頃、突然スピードが落ち始めた。大理行きの車も、大理から麗江へ向かう車も、亀の歩みと変わらないスピードとなった。さらに、中国でよくある走路無視の強引な割り込みが拍車をかけ、 お互いが反対車線に乗り込み、身動きのとれない状態になった。これではいつになったら、大理へつけるのかわからない。もともと、片道3時間、往復6時間の距離を日帰りでこなすという強行軍の予定で来ているから、余分な時間がない。渋滞で何時間も喰われたら、大理へ着いたすぐにトンボ帰りで、麗江へのバスに乗るはめにならな ることもありうる。とんだ災難だ。

 気持ちはあせるが、どうしようもない。一体、何が原因なんだ。事故でもあったのだろうか。
 警察が来て、交通整理でもしてくれることを期待したいが、大都市の中ならともかく、内陸の警察がそこまで親切とは思えない。春節中でもあるし。
 そう思っていたら、パトカーが数台、麗江の方向からやってきた。双方にらみ合って、押すに押せず、引くに引けない状態になっていた双方向の車群も、警察の威力には逆らえず、皆脇に寄って避けた。パトカー数台が抜けて行ってしばらくすると、ゆっくりとであるが、双方向の車が動き始めた。徐々にスピードが上がり始める。どうやら、前方で交通整理をやってくれたらしい。助かった。少し進んだところで、後方から再びパトカーがやってきた。今度は黒塗りの立派な高級車を伴成っている。さきほどと同様に皆脇に寄って、パトカーと黒塗りの高級車を通した。どうやら、パトカーがやってきたのは、皆のために交通整理をするためでなく、黒塗りの高級車に乗った人物を大理へ送り届けるためだったらしい。案の定、交通整理が行われたのは、一時的なことであり、再び亀の歩みに戻ってしまった。
 それでも、一旦道が開かれたためか、完全な停止状態に陥ることはなく、ゆっくりゆっくりと車は進み、大理への途上にある「喜洲」付近のところまできた。道路の両脇を、民俗衣装をきた老若男女の人々が籠に色とりどりの商品を詰めて行き来している。やがて、視界一面を賑やかな市場が現れた。広々とした剥き出しの土地に、ゴザを引いたり、籠を並べたりして無数の人たちが商いをしている。そう言えば、この辺りでは定期的に市が立つとガイドブックに書かれていた。この市が、渋滞の原因だったのだ。
 活気に溢れた大きな市で、トラックの荷台に乗って大勢でやってくる人、徒歩でやってきた人、バスに乗ってやってきた人で溢れかえっていた。ほとんど全ての人が少数民族の白い服をきていたのが印象的だった。妹も物珍しそうに、覗き込んでいる。こんな機会は滅多にないから、下車してひと巡りしたいところだが、ここで降りてしまっては大理にいつ到着できるかわからなくなる。今回は諦めるしかないだろう。

 やがて、バスが「喜洲」のところまできた。両脇に真っ白な建物が立ち並んでいる。以前やってきたときは、こんな真新しい建物はなかったと思うから、恐らく、ここ数年で建てられたものばかりだろう。 「喜洲」は大理の中でも特に有名な観光地だ し、麗江への途上にあるという地の利もある。近年の旅行ブームに乗って一気に開発が進んだのに違いない。それにしても、この変わりようには驚かされる。 或いは、私が以前に着いた先とはまた別の場所なのだろうか。
 
 「喜洲」を抜けると、横道に抜けていく車両が増え始め、同時に渋滞も解けた。バスはスピードを上げて30分もしないうちに大理の古城へと到着した(12:00)。
 

 古城の外れの門をくぐって、人通りのない道を歩いて中央の大通りへ向かった。途中の道路は時折タクシーが通るぐらいで、ほとんど人影もなかった。春節で、観光客も少ないのかなと思っていたら、メイン通りが近くなるにつれて、どっと人の姿が増えて、通りに入ると前に進むのが容易でなくなるほどの人混みに囲まれた。麗江に負けず劣らずの賑わいだ。売っているものは、麗江とほとんど変わらないもののはず。私にとっては、この大理の雰囲気を再び肌で感じられるだけで十分だ。
 しかし、Zと妹にとってはそうではないようで、麗江のときと同様、土産物屋めぐりが始まった。あらら、ここで一軒一軒立ち止まっていたら、いつまで経っても先へ進むことができない。
 「ほら、今日は日帰りなんだから、急がないと」
 なだめすかして、先へと進ませた。 

 洋人街へ到着。この通りの角にあるのは「金花大酒店」だ。
 「ここ、このホテルに俺、泊まったんだよ」
 Zは、私の言葉など耳に入らないらしく、何か面白いものはないかと周囲を見回すだけ。妹は私が感傷的な気持ちになっているのを悟って、「ふーん」と調子を合わせてくれる。さすが日本人。やっぱり違うよ。或いは、Zが鈍いだけか・・・。
 「ねぇ、もしかしてこのホテル、もう閉まっているんじゃない?」
 「えっ?」 
 「ドア閉まってるし、何か貼ってあるよ」
 妹が指差した張り紙のところへ行って、読んでみた。
 全くその通り。閉店したと書いてある。なんたること。こんな一等地にあるのに何でつぶれてしまったのだろう。そういえば、このホテルは表はそれなりに立派だが、内部は無駄な空間が多い、旧式の建物だった記憶がある。もしかしたら、建て直しでもするのかもしれない。いずれにしても、なんだが寂しくさせられた。

 洋人街の中へ入っていく。
 「ここは外国人が集まるから、洋人街っていうんだよね・・・」
 説明しながら歩くが、どうも様子が違う。通りの入口付近に携帯電話屋が店を広げている。歩いているのも中国人ばかり。中ほどにあるオープンカフェの店の造りは以前と変わらずだが、座っているのは中国人のカップルが数組のみだ。以前はなんとなく、中国人では入りづらいといった雰囲気が漂っていたのだけれど、今はただの通りの一つに過ぎないようだ。中国全体を観光ブーム覆う中で、この洋人街が中国人の潮の波に飲み込まれてしまった感じだ。
 考えてみれば、観光ブームは同時に中国人の収入増加を伴っている。以前は中国人にとってはやや敷居が高かった、外国人価格の料理しかないオープンカフェも、少し裕福な中国人たちにとっては、高すぎるというほどのことはない。まして観光地だから、中華料理だって高いのだ。一旦、中国人が普通に訪れるようになれば、今度はそこは外国人にとって特別な場所ではなくなり、高いお金を払って食事をする必要もなくなる。そうやって、外国人の客も集まりにくくなっているのかもしれない。

 太白楼。
 「ここでカレー食べたんだよねぇ」
 他人には意味をもたない感傷に過ぎないとわかっていても、言わずにはおれない。美味しかったなぁ、あの時のカレー。オーナらしき老人が話しかけてきてくれたっけ。しかし、その太白楼も現在はくすんだ色に見える。以前の不思議なオーラに包まれたような雰囲気は感じられない。時代に取り残されてしまったかのようだ。
 「ねぇ、そこで食べたいの」
 妹が気を利かせて言ってくれた。
 「いや、いいんだ」
 「いいじゃん、食べれば~」
 「ほら、俺、ローカボ・ダイエット中だから、カレーライスは食べられないし」
 そうやって断ると、妹はようやく納得してくれた。実のところ、記憶にあるのと違ってしまった太白楼で食べるのが嫌なだけだったのだ。

 早々に洋人街を離れて、通りをぶらぶらしたところで、露店の「涼粉」を食べた。見かけは巨大なプリンともみえる。名古屋の「ういろう」にも似て見えるが、全く甘みはない。中国に来た当初は外観と味の違和感に慣れず、嫌いな食べ物の一つだった。しかし、今は大好き。やはり各々の土地にあった食べ物を体が要求するのだろう。でも、今はローカボダイエット中なので、一口程度しか食べられない。妹は、麗江で初めて食べて、珍しい食感とスパイシーな味わいが気に入ったらしく、ここでも美味しそうに口に運んでいた。

 次に食べたのは大理チーズ焼き。ここでは卸売りもやっていて、その場で巻いて、その場で焼いており、いかにも美味しそう。客もたくさん集まっていて、次から次へと売れていく。私も混じって並び、一本購入した食べた。焼く前の原料はこちこちの厚いユバのようなのに、焼き上がって口に入れるとしっとりした味わい。他の場所より、1RMB高かくて一本4RMBだったが、それだけの違いはあった。

 昼食。少数民族料理を売りにしている繁盛店で食べた。値段は比較的リーズナブルだったが、味は最悪。また野菜等がきちんと洗えておらず、砂が混じっている。3人とも不満たらたらで店を後にした。外に並べてあった野菜は美味しそうだったのになぜこんなに不味い料理になってしまうのか不思議。食が進まなかったのは、涼粉でお腹が膨れてしまっていたというのもあるかもしれない。

 食事を終えて、古城の目抜き通りを先に進む。一箇所、人だかりができているところがあったので、覗いてみるとべっこう飴を売っていた。中国でも、あちこちでみかけるものなので、さほど珍しいものではない。しかし、妹にとっては意外だった模様。
 「へぇ~、中国にもべっこう飴があるんだねぇ」
 「いや、たぶん中国のべっこう飴が日本に伝わったんだと思うけど」
 説明を試みるが、妹の耳には入らない。とにかく驚いた様子だ。だったら、一本買って見るとかと、お店をしきっている様子のおばあちゃんに値段を聞いてみた。すると、長々とした説明をし出した。べっこう飴が連なっている棒がささっている台の上にあるルーレットを回して、ルーレットが止まった絵柄のべっこう飴を買わねばならないとのこと。左のルーレットは3RMB、右のルーレットが4RMBで、前者は小さなべっこう飴、後者は大きなべっこう飴が手に入る仕組みらしい。
 それだけだったら、買おうかと思ったのだが、もう一つ説明が付いた。テーブルのすぐ横に煮トウモロコシが鍋に入っており、それももらって帰らねばならないとのこと。べっこう飴単独では買えない仕組みらしい。べっこう飴を作っているのは夫のおじいちゃんのようだから、恐らくトウモロコシはおばあちゃんの担当。トウモロコシの売れ行きの悪さに業を煮やしたおばあちゃんが考え出した抱き合わせ商法か。
 昼食をとったばかりで、3人ともトウモロコシを食べる余裕はない。買っても捨てる羽目になってしまう。妹には申し訳ないが、べっこう飴は諦めてもらうことにした。

   古城の端まで歩くと、大門のそばの露店でフルーツを売っていた。フルーツ好きのZがさっそく、飛びつく。妹も日本ではあまり見かけないフルーツを見つけて、Zにあれこれ質問していた。

   14:30、タクシーで洱海公園へ移動(30元)。近くにある山へ行くことも考えたけれども、そこから出るときにぼったくられそうな感じだったでやめにした。それに洱海公園のほうが帰りに利用するバス・ターミナルに近い。時間もぎりぎりだから妥当な選択だろう。運転手によると、彼は洱海公園側を起点に仕事をしていて、その帰りだから30元でOKしたけれども、大理古城のタクシーだったら、絶対にOKしないとのことだった。

 洱海公園、15:00着。 湖だが、「洱海」と名が付いているだけあって、海のように広い。(琵琶湖は670キロ平方メートルなのに対して、洱海は約256キロ平方メートル)。風水の関係か、建設時のミスなのかはわからないが、公園の門は、湖からやや離れたところにあり、門として役に立っていない。

 入口のそばに数軒の露店が出ていたので、ここで串焼きを楽しむ。 妹が「何でも唐辛子なんだね」とこれまで何度も口にした感想をもらす。料理好きの妹にとっては どれもこれも唐辛子味なのが納得いかないのだろう。それでも、食べるに当たっては、美味しいねと頬をほころばして食べていた。
 改めて考えてみると、広い中国のこと、各地方において気候も違えば、育つ野菜も異なる。日本でも有名なように中国では四大料理-北京料理、上海料理、四川料理、広東料理-があり、各々特徴がある。(中国では、山東料理、江蘇料理、四川料理、広東料理というそうだ)。経済発展で各地の人の行き来が多くなり各地方の料理を楽しむ機会が増えたり、道路・列車等の交通手段が発達し野菜や調味料が運搬しやすくなったり、農作物の生産技術が向上して他の地方の野菜が育て易くなったりということが各々の料理が他の地方へ進出する機会を増やしたのだと思う。その中で、四川料理の特徴である辛さが勢いを伸ばして広がってきたのは、その強烈な味わいが大きな要因であることは間違いない。また、唐辛子という調味料が運び易く、保存し易いものであったことや、内陸から沿海側への人の流れが沿海側から内陸への人の流れよりも激しいことなどが影響しているのだろうと思う。

 湖の中に突き出すように観覧用の通路が出ているので、それにそって歩く。妹が「広いね、広いね」と感嘆の声を出す。泳げそうだねー、夏だったらきっと泳いでいる人がたくさんいるだろうねぇ、と話していると・・・、いたよ、この真冬に泳いでいる人が。妹が、何で水泳帽をかぶってるんだろうね?と変なところに興味をもって質問をしてくるが、もちろん、私もZも答えられない。毛がなくて恥ずかしい・・・ということはないだろうから、恐らく、髪の毛がどこかに絡んだりする危険を防ぐためではないだろうか。

 観覧用の通路をぐるりと回ると、湖の見学は終わり。湖をあちこち回る船も出ているようだけれども、日帰りの身ではそこまでの余裕はない。そろそろ、麗江へ戻らなければ・・・。

 洱海公園からバス・ステーションまでは、三輪バイタクで移動だ。少々危険だけれども、中国に来たからには、妹にも是非これに乗って欲しかった。 私が住んでいる深セン特別区外にもあるのだけれども、数がだいぶ減っていて中心街ではつかまらないし、何より外観がシンプルすぎて味わいがない。良かった。乗る機会があって。

 バス・ステーションに到着。チケットを購入(123RMB+6RMB(保険代))。

 16:40、麗江に向かって出発。